旧約聖書。
それはあまりにも膨大で、
ページ数が多すぎて、
どこからどう読んだらよいものなのか…
しかも神様が…コワイ。
コワすぎる。
地上に降りて来て下さった御子イエス様と、
父なる神様はこれほどご性質が違うものなのか?
どう受け留めたらよいのだろう…
でも…
であれば…
暫くはフタをしてみよう。
まずは新約聖書。
新約から読んで、
心の準備が整った時から旧約に入れば、
それはそれでいいのではないか。
何も焦ることはない。
一年間そう思っていました。
が、そんな中でも、「創世記」の冒頭には強く惹かれるものがありました。
天地創造
初めに、神が天と地を創造した。
— 創世記 1:1
この一節を初めて目にした時は、そのあまりにストレートな記述に一瞬たじろぎましたが、程なく我に返ってからは、
そうだったのか!
そうだったのか!!
そうだったのか!!!
と、納得せざるを得なかったと言いますか、
妙に腑に落ちた、やっと腑に落ちたんですね。
例えば昨年、「神ってる」という言葉が流行りましたが、
これぞ神ってる!
神ってなくて何とする!?
そう思わざるを得ないんですどう考えても。
だいたいこの宇宙の完璧なあり方に、「偶然」などというものがあるのでしょうか?
あたかも計算され尽くしたようなあり方に。。。
私にとってはノー!です。
そこには計算もですが、完全なる「意志」を感じて仕方がないんです。
そう、この一節に出会ってから、私の中では「ビッグバン」が消え去りました。
どう考えてもその方に無理がありますので。
そのような視点で創世記の最初の部分を読み進めると、とてもワクワクしてきます。
- ビジョンとイマジネーションの豊かさ
- 高度すぎる芸術性
- 用意周到な計画性
などなど、サスガは全知全能の神様ブラボー!!!
と、スタンディングオベーションをしてもし切れない程の大感動に浸れます。
しかもそれらは「ことば」によってお造りになられたワケですから、我々人間の想像を遥かに遥かに超えられたお方だという認識も生まれてきます。
またそれだけではなく、密かな楽しみもありで。
それは。。。
天地創造の第三日目からその都度、
「神はそれを見て良しとされた。」
という一節が入っています。
それを読む度に、
神様がたいそうお歓びになられて本当に良かった
と、同時に、
神様のドヤ顔を見たかった
と、つい不謹慎な想いを抱いてしまい、ドツボにはまっていたりします(笑
そんなこんなで、全ての壮大な始まりである創世記の冒頭部が大好きで、何度も繰り返し読んでいたハズが、ある日突然、重要な見落とし部分があることに気が付いてしまったのです。
さあ人を造ろう
さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。
— 創世記 1-26
何度も目にしていた一節です。確かに読んでいました。それが…
突如として「われわれ」に目が釘付けになってしまいました。
われわれ!?
われわれって??
胸騒ぎを覚えた私は急いで英語バージョンも調べてみました。
すると。。。
Let Us make man in Our image, according to Our likeness.
— Genesis 1:26
こちらはお気に入りの NKJV (New King James Version)ですが、確かに
“Our”となっていますよね。
「我々の」です。
しかも大文字で。
以前、まだクリスチャン見習いの頃に、
「天のお父様がいまいちピンときませんので、迷子になっていた私を自ら捜し出して下さった愛するイエス様のお名前で呼びかけ、お祈りしてもいいですか?」
との質問に
「もちろん構わないですよ、同じことですから。」
と、返ってきた牧師先生の答えが蘇り、ここに一致したのです。
やはり、、、
そうだったのか!
そうだったのか!!
そうだったのか!!!
言葉にならない感動が魂の底から湧き上がってきました。
まぁこれには、天使や御使いたちに投げかけた言葉…という説もあるようなのですが、七星的には違うと思います。
神様がご自分の格下の者に、ここまでの大いなる歓びの言葉をかけるとは到底思えないからです。
神様からご覧になった「われわれ」ですからね。
そこにはよほどの信頼関係がなければ、滅多に口にできないお言葉なのではないかと。
「さあ人を造ろう」
それまでの創造は、「人間」のための舞台設定だったかとさえ思えるような御言葉であり、さてといよいよ真打ち登場!との期待感や勢いさえ読み取れます。
そしてまた、
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
— ヨハネの福音書 1:1-2
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. He was with God in the beginning.
— John 1:1-2
やっとこの聖句との一致も見られました。
もはや大感動以外のナニモノでもありません。
原典のギリシャ語では「共に」という言葉を “with” ではなく「プロス」という前置詞、すなわち「向き合って」という言葉が使われています。
その言葉には、お互いが密なる親しい交わりをもって、意志を伝え合い交流し合っている様子が如実に表されていますよね。
が、そうなると、、
神はひとりではないのか!?
という疑念が必然的に起こると思われます。
キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、唯一無二の神を、同じ神を礼拝しています。
三位一体であられる神
「三位一体」は非常に賛否両論分かれるところであり、その奥義も深いものがありますので、まだまだ駆け出しの私が淫らに語ってはいけない神学かもしれませんが。。。
この図を見てピン!ときたんです。
なるほどと。
- 「父なる神」は「御子」でも「聖霊様」でもないが「神」である
- 「御子」は「父なる神」でも「聖霊様」でもないが「神」である
- 「聖霊様」は「父なる神」でも「御子」でもないが「神」である
ますます判りにくくなりましたでしょうか?
ではこういうのは如何でしょう。
それぞれの神が全く別のペルソナを持ち、
すなわち1+1+1であれば、
イコール3、3人となってしまいます。
が!
1✕1✕1であれば、
イコール1、1人となります。
長年経営者をやってきておりますので、何でもかんでも数字に置き換えるクセがありますが、感情を入れずに数字化することで、見えなかったことが見えてくる経験をたくさんしてきましたので、この方法で個人的には納得がいった次第です。
確かにもっと論理的思考で述べよ!
と、迫られますと答えに窮しますが、
そこを追求したところで幸福度は高まりませんし、
今はこういう状態で信じていても良いのではと思います。
私は冴えた頭脳など持ち合わせていませんが、
「本能」と「直感」だけは少々ありまして。
それがあったからこそイエス様との出会いが判りましたし、
イエス様を信じることができた。
今はそれで良しとします。
もしかしたら父なる神様が、
「光があれ。」
と言えばイエス様がせっせとお造りになられ
「大空が水のまっただ中にあれ。」
と言えばイエス様がせっせとお造りになられた
と、考えただけでも、創世記の冒頭部分がイキイキと迫りに迫ってきます。
もちろん、神様は人のカタチをとらない「霊」なる存在であられますので、こういった妄想には無理があるかもしれませんが、三位一体を自分勝手に擬人化することにより聖書が読みやすくなるのであれば、それはそれでありかなと思っています。
兎にも角にも、新約でしか表されていなかったハズの三位一体が、実は旧約の冒頭でその奥義が明かされていた!
というナゾナゾが解け、俄然旧約聖書を読みたくなってきました。
最愛のイエス様が最初からおられたのですから。
ということで、七星はこれから旧約聖書の冒険の旅へ出るとします。
おそらく色々な箇所で躓くことでしょう。
ですが、その躓きを楽しみにしていただけましたら、七星も泣いて歓びます(爆
そう言えば約半年間、ブログ更新を怠っておりましたが、その間にセッセと構築していた新事業もスタートとなり、それに関してはもう神様のサポート無しにはあり得ませんでしたので、クリスチャン生活を基盤として愛のビジネスを行う者として、これからも聖書から受ける大歓喜と大感動を綴っていきたいと決意しています。
また、ブログ再開を祝し、一大リニューアルをしましたので、トップページもぜひご覧下さいね。
それでは次回お会い致しましょう😉
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One thought on “始まりは三位一体の神様から〜天地創造の壮麗壮大なシンフォニー”