羊飼いイエス様の至上の愛

浦安国際キリスト教会へ通うようになり、リトリートを経て、教会員の皆さまと親しくなることもでき、そのおひとりからお茶にお招きを受けた日のことです。
そのリトリートがとても有意義であったという話に花が咲いた後、

「あのね。あなたがその歳になってイエス・キリストに縁したということは、どう考えてもイエス様から選ばれたとしか思えないのよね。」

“その歳”にアハハハ(涙)と思いながら、フムフムと聞いておりますと、

「あなたがあまりに迷い込んでいたから、迷路にいたから、見かねたイエス様があなたを捜しにいらっしゃったとしか思えないの。」

えっ!?イエス様自ら私を捜しに??

「そうよそういうこと。」

えーーーーーーーーーー???

その衝撃的過ぎるお話に、嬉し過ぎて恥ずかし過ぎて倒れそうになり、ズーっと心ここにあらず的な私でしたが、その後たまたま教会の聖書勉強会で

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
— ルカ 15:4-7

以上の箇所を学ぶ機会に恵まれ、
これだったのか!そうだったのか!!と。
しかしながら羊飼い と 
その時代も民族も違いますし
何と言っても二千年前ですし
何だかサッパリで。

その昔、イスラエル民族は放牧の民として牛や羊の群れを連れ、牧草を求めながら東へ西へ、南へ北へと歩いて移動していました。
そして牧者は羊に牧草や水を確保しなければならなかったと同時に、野獣からも羊を守らなければならなかった為、それらが徘徊する野で絶えず危険に晒されながらも、夜、羊が襲われないように、野宿して羊の群れの番をしていました。
その中でも善い羊飼いは、例えどのような敵が来たとしても、決して羊を置き去りにはしませんでした。

知りませんでした。
もちろん知りようがなかったにしても
そこまで命懸けの仕事であったとは(驚)

と、いうことは、、
イエス様が善い羊飼い
我々人間が羊ということですね。
背景が判って容易に想像がつきました。

確かに羊は弱い動物と聞いています。
狼や熊やライオンには太刀打ち出来ないでしょう。
ですから、育てて守って下さる羊飼いが必要です。

人間もまた、弱い生き物です。
平気で人を傷つけ
平気で悪の誘惑に負け
いとも簡単に堕落し
数えきれない罪を背負い続け
人生の敗北者となります。
ですから、人間の性質を知り抜いた指導者=救って下さる方が必要です。

羊は迷いやすい動物だそうです。
迷うと自分で牧場へ戻って来られないのだとか。
ですので、羊飼いは迷った羊を捜し歩きます。

人間もまた、迷う生き物です。
迷ってしまうと、自分の知恵と力だけでは本来自分のいるべき所へ戻ることはできません。
ですので、人間を超えた力と助けが必要です。

と、いうことは、、
それって、、、
私ではありませんかーーーーー!!!(苦)

実際の生活に於いても方向音痴で地図を読めない私が、
人生に於いても道に迷い途方に暮れていた時に、
イエス様自らが捜しに来て下さり、
遂に見付けて下さったのです。
何という驚き!
何という奇跡!!
何と憐れみ深いお方なのでしょうか!!!
父なる神と一体のお方がこんな私を(感涙)。。。

聖書の時代の羊飼いは、飼っている羊一匹一匹に名前を付けて呼び、我が子のように愛して育てました。
当然、全羊の見分けがつきます。

ある日、百匹の羊を飼っている羊飼いが羊を数えてみると、一匹がいなくなっていることに気が付きました。
判るや否や、九十九匹の羊を荒野に残し、迷い出た一匹を捜しに出かけました。
残した九十九匹は野獣に襲われ食べられる危険性が大でしたが、羊飼いはそのような計算を一切せず、一心不乱に捜しに捜しました。
その失った一匹を愛していたからです。
「見付けるまで捜す」という執念のもと、歩き疲れても、捜すのが困難であっても、彼は止めることをしませんでした。
そしてその忍耐の行動の結果、遂に一匹を見付け当て、大喜びでその傷付き疲れ果てていた羊を担ぎ、帰って来てから友達や近隣の人を呼び集め、「いなくなった羊を見つけたから、いっしょに喜んでください」と言ったのです。

かけがえのない愛
打算のない愛
忍耐深い愛
優しい愛
喜びを分かち合う愛

人生で初めて知りました。
人間の打算的利己的愛と全く一線を画する大きな愛。
これぞ無償の愛
至上の愛ではないでしょうか。

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにいのちを捨てます。
— ヨハネ 10:14-15

I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me—just as the Father knows me and I know the Father—and I lay down my life for the sheep.
— John 10:14-15

イエス様は我々一人一人をよくご存知です。
父なる神ひとり子イエス様を知り、
ひとり子イエス様が父なる神を知るように。

「私を知って欲しい」
古今東西
子供も大人も
この強い欲求を持たない人間は皆無でしょう。
特に近年、SNSという存在がそうであるように。
認められれば、共に喜んでくれる人がいれば、人生が喜びに満ちたものになり、
誰にも認められず、誰にも知られず、誰も関わり合う人がいなければ、絶望の中の人生を生きなければならなくなるでしょう。
が、イエス様と一体の父なる神は、我々の成功も失敗も喜びも悲しみも、全てをよくよくご存知です。
神の中の父と子の相互認識と同じような関係が、神と人間の間にもできると、イエス様が確信を持って仰っておられるからです。
例え誰から知られなくとも、認められなくとも、神様だけは知っておられるという事実が判れば、人生に輝かしい光が、生きる喜びが満ち溢れてきませんか?

イエス様が「知っている」と仰った意味は、「我々のために命を捨てた」ということです。
イエス様が我々一人一人を知り、命を捨てるまでの愛で愛して下さり、それはこの世が終わるまで永遠に変わらない愛だということが判れば、遅かれ早かれ死にゆく運命の我々でも、その死に至るまで大歓喜の人生を歩めるのではないかと、ヒシヒシと感じている今日この頃の七星でした。

それではまた♪

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